近世の初めのころになると、近江商人たちは、全国的に商業活動をしたばかりでなく、遠くは東南アジアの国々まで足をのばしました。この近江商人の故郷は、近江八幡、五個荘、日野、愛知川、能登川、柳川、薩摩など湖東地方を中心として全県下に分布しており、その発祥の歴史は鎌倉時代にまでさかのぼるといわれています。

 1602年(慶長7年)津軽の鰺ケ沢に出店を開設し活躍していた柳川(現在の彦根市)出身の田付新助は、共に活躍していた同郷の建部七郎右衛門と一緒に、1610年(慶長15年)北海道の松前に渡り、福山に出店を開いて、本州との交易に従事しました。

 その後、薩摩(現在の彦根市)出身の宮川権右衛門や八幡(現在の近江八幡市)の商人であった岡田弥惣右衛門、西川伝右衛門たちが、松前に出店を開いています。

 松前を中心として北海道全域に商業活動をした商人たちは、1804年〜1817年(文化年間)には、国後島にまで進出し、19か所に及ぶ地域にそれぞれ出店を設け、漁場の組織的な開発や漁法の改良、産業の育成振興に大きな貢献をしました。

 このようにして目覚ましい活躍をした八幡、柳川・薩摩の商人たちは、両浜商人と呼ばれ、松前藩との間に場所請負人のとりきめを交わし、幕末まで大いに活躍しました。

 一方、枝村(現在の豊郷町)出身の藤野喜兵衛は松前に渡り、努力して開業し、1806年(文化3年)には松前藩から数か所の場所請負を許可されました。そして1817年(文化14年)千島、国後島を手始めに根室、花咲、目梨、色丹島、択捉島を請け負って活躍し、北海道や北方領土の産業の発展に尽くしました。

 松前に拠点をもち各地で活躍した商人たちは、次第にその数を増し、商いも大きくなりました。北海道で買い入れたさけ、にしん、こんぶなどの海産物は、自分たちの持ち船(松前船といわれる)によって京都、大阪へ運びました。

 その輸送経路は、日本海から敦賀港を経て琵琶湖を利用するものと、日本海から瀬戸内海を経由するものがありました。そして北海道へはこの逆コースによって衣料品、小間物、雑貨、荒物などの物資を運び、往復取引によって繁栄したのです。

 明治維新後、1869年(明治2年)場所請負制度が廃止されたことによって、両浜商人たちは次第に出店を閉鎖しましたが、江差を中心として活躍していた五個荘商人、能登川商人(現在の東近江市)たちは、時代の動きに左右されることなく1904年〜1905年(明治37年〜38年)ころには北海道全域に500余りの出店を作りました。

 このように、近江商人の活動は商業活動にとどまることなく、田畑の開墾、銀行の設立、商品取引所の開設、織物工場の建設、炭鉱の開山など、北海道の開拓と文化の向上に尽くした功績は、今日でも高く評価されています。