近藤重蔵と大溝藩

近藤重蔵.JPG

近藤重蔵甲冑姿の肖像
(近藤重蔵翁顕彰会所蔵)

 北方探検で有名な近藤重蔵は、1771年(明和8年)江戸町奉行配下の与力の家に生まれました。与力という職は、町人に対しては大きな権力を持っていましたが、一代限りの役職であって、正式な幕府の役人ではなかったのです。

 そこで、重蔵は、幕府の「学問吟味」(役人登用試験)を受け、最優秀の成績で合格し、長崎奉行の役人になりました。長崎で海外の情勢を見聞した重蔵は、北海道や北方領土周辺の動向に強い危機感を抱きました。

 その頃、ロシアは、千島列島ぞいに活発な南下活動を続け、各地で紛争が起きていました。そこで幕府も調査団を派遣し、北方の防備や開発に真剣に取り組みはじめました。

 重蔵は、28歳で念願の「松前蝦夷地御用」を命ぜられ、1798年(寛政10年)最上徳内と共に荒波を越えて択捉島に上陸し、丹根萌に「大日本恵登呂府」の標柱を建て、日本の領土であることを明らかにしました。重蔵は10年の間に5回にわたって、北海道や北方領土を探検し「辺要分界図考」など貴重な資料を幕府に提出しました。

 その間、彼は、特に択捉島の開発に力を注ぎました。新しい漁場を開いたり、アイヌ人に漁法を教え漁具を与えるなど、生活の向上に努めました。また、本土のような村々の組織をつくったり、苦心して集めた資料をもとに、札幌を中心とする北海道の開拓計画を幕府に進言しました。この計画が明治時代になって実現されたことからいえば、先見の明があったといえます。

 その後、重蔵は不幸な事件に巻き込まれ、幕府の命令によって大溝藩にお預けの身となりました。重蔵にとってまことに無念なことであったにちがいありません。

 ところで、大溝藩は小さな藩ながら学問を好む気風がありましたので、重蔵を丁重にもてなしました。そして重蔵の風格と識見は、おのずから藩内の人々に大きな感化を及ぼしました。重蔵は気の向くままに、書物を読んだり、藩士を相手に意見をかわしたり、漢詩を唱和したりしました。

 暇があれば裏山を散歩し、植物採集を楽しみました。そして「江州本草」(植物図鑑30巻)を著しましたが、残念ながらそれは、現在残っておりません。

 重蔵の学識は、地理や歴史、政治経済、自然科学などの広い分野にわたり、著書も千数百巻に及んでいます。
 大溝藩のお預けの身となって2年あまりの後、重蔵は病に倒れ、1829年(文政12年)59歳で亡くなり、この地に葬られました。